東京地方裁判所 平成10年(ワ)16613号 判決
原告 A
右訴訟代理人弁護士 岡田宰
同 広津佳子
被告 木村高大
右訴訟代理人弁護士 武田博孝
主文
一 被告は、原告に対し、金二三一万二八〇〇円及びこれに対する平成一〇年九月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを三分し、その二を原告の、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、金七三一万二八〇〇円及びこれに対する平成一〇年九月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
一 請求原因
1 被告は、木村歯科医院(以下「本件医院」という。)を開設している歯科医師である。
2 原告(昭和三三年九月一八日生)は、平成四年五月一日、下顎中切歯間の隙間の審美的改善の目的で本件医院に来院したが、診察の結果、被告からまず臼歯のむし歯の治療を行う必要があるという診断を受けたため、被告に対し、右治療を依頼した。
3 原告は、むし歯の治療中であった平成四年五、六月ころ、口の開閉時に顎関節付近に痛みを感じ、開口が困難になり、顎がぎくしゃくする感じを覚えたため、被告に対し、右症状を訴えたところ、被告から顎関節症の診断を受けた。
4(一) 顎関節症の原因は多因子性であり、そのほとんどは可逆的な方法で症状を緩解させることができ、治療しなくても再燃を繰り返しながらいずれも症状は収束し、又は消失する疾患であるから、被告には、歯科医師として、顎関節症の治療を行うに当たり、可及的に可逆的、非侵襲的で、かつ患者の肉体的、精神的、経済的負担がより少ない方法を選択すべき注意義務があった。それにもかかわらず、被告は、これを怠り、原告に対し、フルマウスリハビリテーション術を施した。すなわち、被告が原告に施したフルマウスリハビリテーション術(以下「本件治療」という。)は、健全な歯を抜髄し、歯冠を歯肉と同じ高さまで削り取り、歯随部分の根管を更に拡大した間隙にメタルコアの心棒を埋め込み、その上に歯冠修復物を被せ、それぞれの歯冠を連結するという、不可逆的で侵襲が大きく、危険性が高い治療方法であり、かつ咬合不全と顎関節症との因果関係が証明されないことが明らかになった今日においては、顎関節症の治療のための必要性が認められない治療方法であるにもかかわらず、これを顎関節症の治療方法として勧め、平成五年七月から八月にかけて、原告に対し、これを施術した。
(二) 仮に、本件治療を行った目的が開咬等の審美的改善にあり、顎関節症の治療が付随的な目的であったとしても、本件治療は、患者の肉体に対する侵襲が激しく不可逆的な治療方法であるから、被告には、歯科医師として、原告から本件治療を行うための承諾を得るに当たり、<1> 患者の症状、<2> 実施を予定している治療行為の内容、<3> 予想される成果、<4> 治療行為に伴う危険、<5> 代替可能な他の治療方法、<6> 治療をしなかった場合の予後等について詳細な説明をすべき注意義務があり、原告が右のような点について詳細な説明を受けていれば、不可逆的で侵襲の著しく大きい本件治療を受けることを承諾しなかったはずである。それにもかかわらず、被告は右<2>、<4>及び<6>については全く説明せず、<5>については誤った説明をするなどその義務を怠り、健康上極めて重要性を有する咬合につき、原告には不具合があり、その再構成を図るために本件治療が必要であると考えさせた上で、原告から有効な承諾を得ることなく本件治療を行った。
(三) しかも、被告は、本件治療により原告を歯肉炎や歯周病に罹患しやすい状態にしたのであるから、被告には、原告に対し、右危険に留意するように説明し、具体的に効果的なブラッシングの方法を指導する義務があるにもかかわらず、これをも怠った。
5 被告が右4の注意義務を怠り本件治療を行った結果、原告はその治療費として一八一万二八〇〇円(税込)を支払ったほか、二八本の自然歯を失い、本件治療後、歯周病に悩まされるなど計り知れない精神的苦痛を受けた。その慰謝料としては五〇〇万円が相当であり、また、原告は、本件訴訟の弁護士費用としては五〇万円を負担している。
6 よって、原告は、被告に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、七三一万二八〇〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一〇年九月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実うち、原告が平成四年五月一日に被告の診察を受けたことは認め、その余の事実は否認する。
原告の当初の主訴は、上顎右側大臼歯部の歯間離開、左側臼歯部が右側に比べて過高であるということであった。
3 同3の事実は認める。
4(一) 同4(一)の事実は否認する。
被告は、顎関節症の治療のためにフルマウスリハビリテーション術を提案したのではない。原告の顎関節症が平成四年七月に完治した後、原告の審美的改善の要求に答えるため、コンポジットレジンによる形態修正を行ったものの、原告が満足しなかったため、矯正治療を説明した後に、これを提案したもので、被告は、上下顎前歯部切端間の離開(開咬)を審美的に改善し、これによる咬合調整が顎関節症の再発防止にも効果があるところから、本件治療を行ったものである。また、本件治療は、すべての歯について抜髄したり、歯冠を歯肉と同じ高さまで削ったものではない。
(二) 同4(二)の事実は否認する。
被告は原告に対し、本件治療の具体的内容について十分な説明している。
(三) 同4(三)の事実は否認する。
フルマウスリハビリテーション術をしても、通常のむし歯の治療のために歯冠に修復物を被せた場合と比べて歯周病等に罹患する可能性が高くなることはないから、通常の歯磨きは必要であるが、特別な歯磨きが必要となるものではないし、被告は原告に対し、ブラッシングについても指導をしている。
5 同5は争う。
第三争点に対する判断
一 事実関係
後記のもののほか、証拠(甲一〇、乙一の1及び2、九、一〇、原告本人、被告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
1 原告は、平成四年五月一日、数年前から顕著になってきた下顎中切歯(前歯の中心に位置する二本の切歯)間の隙間などについて審美的改善を行いたいと考え、本件医院において被告の診察を受け、その際、被告に対し、右の隙間や左右の臼歯部に高低差があり咬み合わせが悪いことなどを訴え、歯並びについて審美的改善を行いたいという希望を伝えた(甲五の1及び2)。
そのため、被告は、原告の口腔内のエックス線撮影を行うとともに口腔内模型(甲六の1及び2)を作成し、上顎右側大臼歯部の歯間に隙間があること、下顎関節頭の形態が正常な円形ではなく顎関節症になりやすい器質であること、ブラキシズム(歯ぎしり)の痕跡があること、上下の前歯が垂直ではなく前方に突出しており、開咬(咬合の際、奥歯だけが接触し、上下の前歯の間が開いた状態にあること)であって咬合不良であるために顎に負担がかかる状態になっていることなどを確認し、また、原告には舌を前に出す癖があり、そのためにさ行及びた行の発音が不良であり、舌圧により前歯が前方に突き出される形になり、下顎中切歯間に隙間が発生していると診断したが、右確認事項や診断結果については、原告に説明しなかった。そのため、原告は、従前から歯並びや咬合に問題があるとは感じていたものの、開咬について特に重大な問題があるとの認識もなかったため、被告に対し、開咬の治療を特に強く希望したことはなかった。
また、被告は、同時に下顎右側最後臼歯に慢性化膿性歯根膜炎があることを発見したため、原告に対し、原告の希望する審美的な改善を行う前に、まず右歯根膜炎の治療を行う必要があることを説明し、原告はこれを承諾した。
2 その後、原告は、本件医院において歯根膜炎の治療を受けるとともに、被告から、開咬を含む審美的改善のための治療方法として、上顎の前歯を矯正して挺出させる方法があり、その治療には、金属ブラケットを用いる場合は三〇万円、白色のブラケットを用いる場合には四〇万円の費用がかかること、下顎中切歯間の隙間については、隙間がある部分の左右四本の歯を抜髄して矯正する方法があることを説明されたが、原告は、審美的改善だけが目的であれば右のような治療を行うまでの必要はないと思ったため、その治療を希望しなかった。
3 原告は、前記の歯根膜炎の治療を受けていた平成四年五、六月ころ、口の開閉時に顎関節付近に痛みを感じ、口の開閉が困難になったため、被告に右症状を訴えた。被告は、同年六月四日、原告を診察し、開口量が上下顎前歯部切端間で二センチ七ミリメートルしかないこと確認し、原告の下顎関節頭の形態が正常な円形ではなく顎関節症になりやすい器質をもっていること、ブラキシズム及び咬合不良により顎関節に負担がかかる状態にあることなどを総合考慮して、顎関節症が発症したと診断し、原告に対し、顎関節症が発症した旨を告げた。
顎関節症とは、顎関節や咀嚼筋の疼痛、関節雑音、開口障害ないし顎運動異常を主要症状とする慢性疾患群の総括的診断名であり、かつては咬合の異常を主たる要因とする疾患であるとする見解が唱えられていたが、現在は、精神的な要因をも含む多因子的な疾病と理解されている(甲四)。顎関節症の治療のために従来行われてきた治療方法は、スプリントの装着などの可逆的で侵襲の少ないものからフルマウスリハビリテーション術のように咬合改善のための外科的処置を伴う不可逆的で侵襲の大きいものまで多岐にわたるが、顎関節症が発症した場合、その要因が常に確定できるとは限らないので、開口障害等の症状を軽快、消失させるための治療方法としては、可逆的で非侵襲的な対症療法を用いるべきであり、咬合異常がその要因となっていることが確定できない場合には、歯牙の削合等による咬合調整は行うべきではないという見解が一般的である上(乙二)、そもそも顎関節症と咬合異常との関連性を否定し、咬合治療の有効性に疑問を投げかける見解もある(甲三)。
4 被告は、原告に対し、顎関節症の治療のため、平成四年六月四日からスプリントの装着による治療を行い、その結果、同年七月三日には、開口量が四センチ四ミリメートルとなり、ほぼ正常な状態にまで回復した。
しかし、被告は、スプリントを外すと開口障害が再発するおそれがあるため、その装着を継続する必要があると判断し、スプリントの装着を継続したままで歯根膜炎の治療を行うとともに、スプリントの装着後、原告から、咬合時にスプリントの左右の高低差による違和感を感じるという訴えがあったことなどから、レジンの添加等によりその高低差を改善するための咬合調整を続けた。
5 原告は、スプリントの装着後、食事中を除いて常にこれを装着していなければならないことを煩わしく思っていたところ、開口量が回復し、開閉時の顎の痛みもほぼ治まっていたにもかかわらず、スプリントを装着したままでの咬合調整が続き、スプリントによる治療期間や顎関節症が治癒する見込みについて被告からの説明がないため、被告に対し、スプリント装着以外の治療方法を尋ねた。
そこで、被告は、スプリントの装着により開口量が正常な範囲にまで回復し、原告の顎関節症の症状は当面消失しており、その治療のためだけであればフルマウスリハビリテーション術を行う必要はないが、原告の前歯が外側に突出した形態の開咬であるため、原告の咬合不良を改善するためには前歯の軸の角度をより垂直に近いものにする必要があること、原告が当初から審美的改善を求めていたことを考慮し、咬合を正常な状態に改善するフルマウスリハビリテーション術を行えば、審美的改善を図ることができるとともに、咬合不良が改善される結果、顎への負担が減り、顎関節症の再発防止にも効果的であるから、原告の希望をかなえる治療方法としては同施術がふさわしいと判断した上で、原告に対し、原告の症状に適した治療方法として同施術があること及びその費用が約二〇〇万円であることを説明した。原告は、右説明に対し、フルマウスリハビリテーション術はその費用が高額であると感じた。
フルマウスリハビリテーション術(別名オーラルリハビリテーション又はオクルーザル・リコンストラクション)は、自然歯の上に咬合的にも審美的にも理想的な人工の歯冠修復物を被せることにより全顎的な咬合の再構成を行うものであり、当時、歯科医師の間で、そしゃく機能障害、咬合平面の喪失、顎間垂直距離の回復、歯周疾患、審美性の改善などに対する治療方法の一つとして認知されており、咬合異常や審美性の改善のための治療として同施術を行った事例が審美歯科医療に関する文献等において紹介されていた(乙三ないし六)。
6 被告は、当時、咬合治療を専門とし、多くの症例に対してフルマウスリハビリテーション術を行った経験を有する伊藤吉美歯科医師(以下「伊藤医師」という。)の指導を受けており、伊藤医師は、一年に一回程度の割合で本件医院に来院し、被告の矯正患者を診察していた。そこで、被告は、原告に対し、伊藤医師の診察を受けるように勧め、原告は、平成四年秋ころ、本件医院において、伊藤医師の診察を受けたところ、伊藤医師は、原告を床に立たせ片足を上げさせるなどして身体のバランスを調べ、原告がバランスを崩して倒れそうになると、原告に対し、バランスの悪さは咬合の悪さからきていると説明した。また、そのころ、本件医院には「赤ちゃんが危ない」と題する伊藤医師の著作(甲一五)が多数置かれており、原告は被告に勧められてこれを読んだところ、同書には、脳の発育と歯や顎の発育には対応関係があり、ほ乳瓶を使用することによって幼児の顎の発達などが遅れることにより、全身に様々な症状が出現すること、成人についても歯並びの乱れや咬合不良が様々な症状の原因となっていることが多いことなどが記載されていたため、咬合は身体のバランスにとって非常に大切であり、咬合が悪いままでいることは健康上問題であって、顎関節症を完治するためにも歯並びの乱れや咬合の悪さを治療する必要があるのではないかと思うようになった。
7 原告は、伊藤医師の診察後にも、被告から、フルマウスリハビリテーション術について何度か説明を受けた。その際、被告は、原告に対し、フルマウスリハビリテーション術は、咬合を改善し、歯冠を連結するために必要な範囲で、疾患のない歯についても相当数の歯の神経を取り(抜髄)、歯冠を削るもので、同施術後は施術前よりも歯周病になりやすくなるおそれがあるが、人工的に歯冠を形成し、連結するために理想的な咬合になるという説明を行った。しかし、被告は、原告に対し、開口障害はスプリントの装着により治癒しているため、審美的改善を行わず、顎関節症の治療だけを行うのであればフルマウスリハビリテーション術を行う必要はないことや、同施術が審美的改善を主たる目的とするもので、顎関節症の治療としては付随的効果を有するにすぎないものであることを明確には説明しなかった。
そのため、原告は、従前の治療経緯及び被告の言動から、被告は顎関節症の治療方法としてフルマウスリハビリテーション術を勧めたのであり、顎関節症はスプリントの装着では完治しないが、同施術を受ければ咬み合わせが理想的な状態に改善され、これにより、顎関節症が治癒し、スプリントの装着が不要になるものと受け止め、同施術を受けるためには疾患のない歯についても相当数抜髄、削合する必要があり、費用も高額ではあるが、同施術が顎関節症を治癒するための最善の治療方法であると考え、本件治療を受けることを決心し、被告に対し、平成四年末ころ、本件治療を受けることを承諾した。
8 そこで、被告は、平成五年一月二六日から同年四月一四日にかけて五回に分けて上下合計九本の前歯について、麻酔をした上で抜髄したが、原告が被告に対し、右施術中に抜髄について異議を述べたことはなかった。その後、被告は、まず上顎について、口腔内模型を基にメタルボンド(内側が金属で外側が陶器のもの)で審美的にも機能的にも最善の咬合になるような形態の歯冠修復物を製作し、同年六月二三日から同年七月二一日にかけて、歯の軸となる金属製の心棒を従前よりも歯が垂直になるような角度で抜髄した部分に差し込み、連結すべき歯の歯冠を、右心棒の周辺部分を残し、外側に飛び出した部分を削り取った上で、右歯冠修復物を歯冠に装着し、最後臼歯二本を除く一二本の歯を連結した。被告は、次に、同年八月一二日から同年九月七日にかけて、下顎についても同様の処置を行い、最後臼歯二本を除く一一本の歯を連結した(甲七の1ないし3)。
9 原告は、被告に対し、本件治療の治療費として、平成五年七月二日及び同年八月二七日にそれぞれ九〇万六四〇〇円、合計一八一万二八〇〇円を支払った。
10 本件治療により、原告の開咬や下顎中切歯間の隙間は改善された(甲八の1ないし4、九の1ないし6)。
11 被告は、原告に対し、本件治療後、定期検診として六か月ごとに来院するように、また、違和感がある場合には随時来院するように指示した。
原告は、本件治療後、度々咬合に違和感を覚えたため、その度に本件医院に来院し、咬合調整を受けるとともに、本件医院において、歯科衛生士による歯石の除去やブラッシングの指導などを受けた。また、原告が、平成七年八月に、咬合時に左側に鈍痛があると訴えたため、被告は右症状はブラキシズムによるものと判断し、ブラキシズム防止のためにソフトスプリントを装着した。原告は、その後も三、四か月に一度の割合で本件医院に来院し、咬合調整や歯石の除去を受けていたが、平成九年五月一二日、右下顎に歯肉増殖による歯周ポケットが認められたので、被告は歯肉切除の手術を行い、さらに、同年七月二四日、原告が被告に対し、咬合時に右下顎の痛みがあり、押すと痛いと訴えたため、被告が診察したところ、下顎右臼歯に慢性化膿性歯根膜炎の症状が発見されたため、被告は洗浄投薬の治療を行った。
12 しかし、原告は、本件治療後も咬合時の違和感が残り、本件治療前と同様にスプリントを装着することになったばかりではなく、度々被告の診察を受けていたにもかかわらず、歯周病に罹患し、歯肉切除を受けることになったことなどから、被告の診察に対して不信感を抱くようになり、平成九年八月一日を最後に本件医院への通院を中止した。
13 被告は、原告から会社に提出するために、平成四年六月ころから顎関節症の治療が行われ、最終的に本件治療を行ったことについて診断書を作成して欲しいとの依頼を受けたため、平成九年一一月一三日、病名を右側顎関節症とし、右依頼の趣旨に沿った診断書(甲一)を作成した。
二 請求原因4について
以上の認定の下に、被告の注意義務違反について検討する。
1 前記認定事実によれば、フルマウスリハビリテーション術は、咬合異常や審美性の改善のために咬合の再構成を行う治療であるところ、被告は、同施術により原告の開咬を改善し、その審美的改善についての要望を満たし、かつ、本件治療を行う前にはスプリントの装着によって顎関節症の再発を防止していたが、咬合が改善されれば顎への負担が減り、顎関節症の再発防止にもつながる効果があるという判断の下に、原告に対し、フルマウスリハビリテーション術を提案したこと、現実に本件治療によって開咬が改善されたことが認められる。
そうすると、本件治療が顎関節症の治療のみを目的として行われたものであることを前提として、被告が原告に対してフルマウスリハビリテーション術を勧め、本件治療を行ったことに過失があるとする原告の主張(請求原因4(一))は理由がなく、また、当時の原告の症伏(特に開咬等の咬合不良の症状)や本件治療の結果をみれば、前記認定のフルマウスリハビリテーション術の一般的治療内容及び効用に照らし、被告が原告に対し本件治療を行ったこと自体が原告の症状に対する治療方法として明らかに不適切であったと評価することもできない。
この点につき、原告は、被告作成の診断書(甲一)によれば、本件治療の目的が顎関節症の治療にあったことは明らかであると主張するが、右診断書は原告が会社に提出するために、平成四年六月ころから顎関節症の治療が行われ、最終的に本件治療を行ったことを記載するように依頼した結果作成されたものであり、かつ、被告が本件治療を行った理由は前記認定のとおりであって、本件治療の目的は、主として審美性の改善にあったものの、顎関節症の治療ないし再発防止の目的も付随的に含まれていたのであるから、右診断書の記載が全く事実と異なるというものではない。右記載をもって本件治療の目的が顎関節症の治療だけにあったと推認することはできない。
2(一) また、前記認定事実によれば、被告は、原告に対し、フルマウスリハビリテーション術により咬合が理想的な状態に改善される反面、そのためには人工的に歯冠を形成し、これを連結する必要があるため、健全な歯についても抜髄をし、歯を削るなどの相当程度の不可逆的侵襲を行う必要があることやその施術後は、歯周病等に罹患しやすくなるおそれがあることについては説明していたことが認められるから、本件治療の具体的内容や治療に件う副次的悪影響についての被告の説明が不十分であったとは認められない。
この点につき、原告本人尋問の結果中には、被告から本件治療の内容として、抜髄を行うことは説明されておらず、実際に抜髄が行われていた際にも神経を抜かれているとは思わなかった旨の供述部分があるが、原告は本件治療前にもむし歯の治療のために抜髄を受けたことがあり、本件治療においては、約三か月にわたり、五回に分けて九本の歯の抜髄が行われているにもかかわらず、被告に対し、何ら異議を述べていないことに照らすと、原告の右供述部分は採用できない。また、原告本人尋問の結果中には、歯をどこまで削るのかについても具体的な説明は受けていない旨の供述部分があるが、他方、歯を削りその上に冠を被せてこれをすべて連結するという説明を受けたことは自認する供述部分があるなど、同本人尋問の結果によれば、原告は、フルマウスリハビリテーション術が咬合改善のために上顎及び下顎の咬合を歯冠修復物によって全面的に再構成するものであることを理解していたと認められるのであって、原告本人尋問の結果によっても、被告は、本件治療が相当程度の抜髄、削合などの不可逆的侵襲を伴うものであるということを説明した旨の前記認定を左右するには足りず、本件治療の具体的内容については、その説明が不十分であったと評価することはできない。
(二) しかし、前記認定事実によれば、原告は、初診の際には主として歯並びの審美的改善を求めていたとはいえ、初診の際に発見された歯根膜炎の治療中に開口障害が発生したという経過の下で、被告は、原告から、顎関節症に対するスプリントによる治療中に右治療方法以外の治療方法の存否を尋ねられたのであるから、原告がその時点では審美的改善よりも現実に発生している身体的苦痛を解消するために必要な医学的処置を求めていると認識できる状況であったにもかかわらず、被告は、原告に対し、顎関節症の治療のためだけであればフルマウスリハビリテーション術を行う必要はないことについては明確な説明をしなかったため、原告は、被告から顎関節症を根本的に治療するための方法として同施術を勧められたものと誤解し、被告に対し、本件治療を受けることを承諾したことが認められる。
そうすると、本件治療は、前記認定事実のとおり、特に疾患のない九本の歯について抜髄し、歯冠修復物を被せる歯については歯冠のかなりの部分を削り取るという侵襲性の高い、不可逆的な治療方法であること、その費用も原告にとっては高額なものであったこと、原告が開口障害発生前に被告から審美的改善のための矯正治療を紹介された際にはこれを希望していなかったことに照らすと、仮に、被告が、顎関節症の治療のためだけであればフルマウスリハビリテーション術をする必要はなく、むしろ被告が同施術を提案する理由が主として開咬等を審美的に改善することにあることを説明していれば、原告は、本件治療を受けることを承諾しなかった蓋然性が高かったものというべきである。すなわち、本件においては、原告は、本件治療の目的、これが提案された理由及びその必要性についての被告の説明が不十分、不明確であったために、必ずしも顎関節症の治療に必要だったとはいえない本件治療について、その目的や必要性を正しく認識することができないまま、これを受けることを承諾するに至ったのであるから、被告は、不可逆的侵襲を伴う本件治療を、原告の正しい認識に基づく有効な承諾を得ないで行ったものであり、本件治療は、違法性阻却事由を欠く肉体的侵襲であると評価せざるを得ない。
この点につき、被告は、原告からの開咬に対する審美的改善の要求が強く、平成四年一一月に行ったコンポジットレジンの添加による矯正の方法によってはその要求に答えられないため、フルマウスリハビリテーション術を提案したのであり、顎関節症は、開口量が正常な範囲に回復した同年七月に完治していたのであるから、その後は顎関節症の治療の必要はなく、被告が顎関節症の治療方法として同施術について説明を行うことはないと主張し、被告本人尋問の結果中には、右主張に沿う部分がある。しかし、被告は、本件訴訟において、当初、「『顎関節症』の治療だけのためにフルマウスリハビリテーションについて説明したのではない。」(答弁書)、「被告は『審美性の改善』と『顎関節症の咬合改善』のためにフルマウスリハビリテーション術があることを説明し」(平成一〇年一二月二二日付け準備書面)と主張していたことからすると、むしろ、被告は、フルマウスリハビリテーション術を顎関節症の治療と結びつけて原告に説明していたことが推認される上、前記認定事実によれば、原告が被告に対して咬合の改善を求めていた事実は認められるが、原告が被告に対して開咬の改善を特に強く求めていたと認めるに足りる証拠はなく、むしろ、スプリントの装着後も咬合調整を繰り返していたという治療経過に弁論の全趣旨を総合すると、原告は右コンポジットレジンによる矯正もまた咬合調整のための処置の一環にすぎないと受け止めていたとも推認される。しかも、そもそも、原告は顎関節症の治療のために開咬を含む咬合不良の改善が必要であると認識していたのであるから、仮に、原告が被告に対し、フルマウスリハビリテーション術の説明を受ける前に開咬の改善を希望したことがあったとしても、そのことをもって、原告が審美的改善のために本件治療を受けることを承諾したと認めることはできない。
(三)右によれば、被告は、本件治療を行うに当たり、原告から有効な承諾を得るために行うべき本件治療の目的や必要性についての明確で十分な説明を怠り、本件治療の目的や必要性についての正しい認識に基づく原告の有効な承諾を得ることなく本件治療を行ったものといわざるを得ないから、結局請求原因4(二)の主張には理由があり、被告は、原告に対し、原告がこれにより被った損害を賠償すべき義務を負う。
3 前記認定事実によれば、被告は、原告に対し、フルマウスリハビリテーション術の施術後は歯周病に罹患しやすくなるおそれがあることを説明しており、本件治療後にも定期検診を受けるように指示した上で、定期的に歯石の除去やブラッシングの指導を行っていたことが認められ、これらの点に関する被告の説明や指導が不十分であったと認めるには足りず、また、本件治療後に原告が歯周病になった原因が、原告の主張するような被告の注意義務違反にあるものとも認められないから、請求原因4(三)の主張は理由がなく、被告は、原告に対し、本件治療後に発生した歯周病等による損害についてまで責任を負うものではない。
三 請求原因5について
1 前記認定のとおり、原告は、被告に対し、本件治療の治療費として一八一万二八〇〇円を支払ったことが認められるところ、被告が本件治療の目的、これを提案する理由及びその必要性について十分な説明をしていれば、原告において、本件治療を受けることがなかった蓋然性の高い本件においては、右金員は、被告の説明義務違反と相当因果関係を有する損害に当たるものというべきである。
2 さらに、被告は、本件治療により、自然歯として保存できたはずの健全な九本の歯を抜髄され、奥歯を除く上下合計二三本の歯について歯冠のかなりの部分を削合されて失ったのであり、その肉体的侵襲の程度は決して小さいとはいえない。もっとも、原告は、本件治療の内容については理解した上で施術を申し込んだこと、削合された歯についても、歯根まで失ったわけではなく、歯冠についてもそのすべてを失ったわけではないこと、原告も当初は審美的改善を求めていたのであり、本件治療により、結果的には下顎中切歯間の隙間や開咬が改善され、審美的な面では従前よりも優れた状態の人工歯を得たこと、機能的な面においても右人工歯が自然歯と比較して著しく劣るものとは認められないことなどの事情を総合考慮すれば、本件治療を受けたことにより原告が被った精神的苦痛に対する慰謝料は、三〇万円と評価するのが相当である。
3 また、本件訴訟の経過、難易度、認定された損害額等を総合すると、本件不法行為と相当因果関係のある弁護士費用は二〇万円と評価するのが相当である。
四 よって、原告の請求は、合計二三一万二八〇〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一〇年九月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 綿引万里子 裁判官 生野考司 裁判官 金築亜紀)